![]()

1995年、住友商事海外工業団地部のメンバーは、新たな工業団地の候補地を探していた。当時は円高や国内企業の人手不足を受けて、日系企業の海外進出の増加が見込まれていた時期。住友商事でも、1990年代初めから手がけていたインドネシアに続く工業団地の設立の検討を開始したところだった。
当時、候補地は複数の国にわたり、ベトナムが第一候補というわけではなかった、と現在両工業団地の社長を務める白石章人は振り返る。
白石は、1995年9月にベトナムを初めて訪れて以来15年間、一貫してベトナムの海外工業団地事業に取り組んでいる。「当時のベトナム、特に北部のハノイは南部と比べて発展が非常に遅れていましたが、ベトナム政府には首都ハノイの工業化・都市化を進めたいという強い思いがありました。そして日本政府からも、その街づくりを円借款などのODAで支援しよう、という熱意が感じられたことが、我々にとって決め手となりました。」と白石は話す。
1996年、ベトナム・ハノイでの工業団地事業は、こうして始まったのだった。

ベトナム政府が用意してくれたのは、ハノイの都心部からも、国際空港からも、わずか16キロという絶好の立地。ベトナム政府の熱意の表れだった。
とはいえ、「政府が出すのは、この土地で工業団地を開発していい、という許可のみ。あたり一帯は水田でしたが、農家の方々と交渉して、実際に土地を手に入れるのは我々の仕事です。これは本当に大変だった。」と白石は語る。
農民たちから見れば、白石たちやそのスタッフは、急に現れた外国人と、同じベトナム人でも都会育ちの見知らぬビジネスマンである。当然のことながら、警戒され、なかなか交渉に応じてくれない。そこでメンバーは地元農村の出身者を専任スタッフとして採用し、村役場の協力も得ながら、10カ月で800世帯の農家を説得して回った。

交渉がまとまった後、メンバーたちは自ら、土地の補償料の支払いに当たった。村の公民館を借り、何日もかけて、地元農家の人たちに現金を直接手渡していく。
「『●●村の△△さん』と呼ぶと、おばあさんが出ていらしたりして、ブリキの箱に並べて準備したドン紙幣を順番に手渡していくんです。この仕事をしたときは、このプロジェクトを絶対に成功させなくてはならない、と責任を強く感じましたね。こうして手放していただいた土地が荒地になってしまった……なんてことに万一なっては、この村の方たちに顔向けできないじゃないですか。土地を提供してくれたすべての方たちに対する恩返し、それがこのビジネスを進めるにあたり、我々の気持ちを支えてきた柱でもあります。」と、現在タンロン工業団地に駐在する清水禎彦は、第二タンロン工業団地の土地収用を行った当時を思い出す。

電力、水道、排水処理、廃棄物処理等、工場の操業に必要なインフラをより効率的に提供するため、工場を集合させた場所。その工業団地の特性に合わせて、あらゆる業種のメーカーが入居しています。
工業団地は、自己完結するコミュニティとして建設されていて、通信設備や警備システム、銀行など、企業やその従業員に必要な施設・環境が整っています。近年では、高度な情報を持つ大学や研究所との連携を図るため、それらの施設と工場が一体となった産学協同型の工業団地もあります。