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1996年、両社は合弁で住宅用資材の製造・販売会社を設立。これはロシア初のJAS認定工場であり、日露間の木材事業において初の斬新な取り組みとなった。「立ち上げ時は大変でした。零下20度を超える世界で物を作るということ自体、日本の企業は全く経験がなかったのです」と語るのは、富島の片腕としてプロジェクトをリードしてきた山北耕介。現地のスタッフや日本の技術者、取引先の協力に助けられたという。そして2000年には、住宅内装部材製造・販売の加工合弁会社も設立。両者間の独占取引契約を締結し、より強力なパートナーシップを築いていった。
「ここでうまくいった経験が自信となり、今の成功につながっていると思う。」山北はそう語る。

「企業経営で一番大事なものは何か。」ジョイントベンチャーを立ち上げる話が持ち上がった際、富島はシェルバコフ氏にそう尋ねたことがある。するとシェルバコフ氏は一言、「遵法精神だ」と答えたという。
「当時まだコンプライアンスなんて言っている人がそれほどいない時代、そういうことを言える人がいるのは驚きだった。この人とならやっていけると感じた」と富島は言う。信用・確実を重んじる社風を持つ住友商事とその信条が同調したからこそ、うまくいったパートナーシップだったのだ。

プラスタンは体感気温が、零下20〜30度くらい。医療設備も整備されておらず、大きな街までは車で9時間もかかる。その駐在生活には、多くの困難があった。
「本屋もビデオ屋も何もない小さな村。しかも人口7,000人のうちほとんどがチェルネイレス社の関係者で、その中に日本人がたった1人。体力面よりも精神面がきつかった。」2002年よりプラスタンに駐在していた田中太郎は当時をそう振り返る。唯一の日本人であるということは、住友商事の代表であり、日本の代表でもある。現地での一挙手一投足が見られているというプレッシャーは生半可なものではなかった。
また、日本語はもちろん英語もほとんど伝わらない状況下で、コミュニティに受け入れてもらうためにも苦心したという。「仕事のみならずプライベートでの依頼、たとえば洗濯機や冷蔵庫の修理も引き受けていましたね。」そう田中は話す。
こうした厳しい環境で働く駐在員に対し、富島は定期的に電話することを欠かさなかったそうだ。

「シェルバコフ氏には、ときには夕食を一緒にどうだとか、非常に気にかけていただきました」と語るのは、同じく駐在員として2003年より現地に滞在した林田修治。単なるビジネスパートナーシップを超えた、こうしたサポートも、メンバーの大きな支えになった。